吾妻篤

杉村惇画伯を師と仰ぎ、塩竈市内のアトリエで精力的に創作活動を続ける洋画家・吾妻篤さん。2014年に発表した作品が展示されたスペースで、吾妻さんの創作への思いを聞いた。

塩竈で生まれ育ち、生涯の師に出会った

吾妻篤宮城県仙台市のカメイ美術館で2016年11月から2017年1月にかけて開催されたコレクション展で、シャガールや藤田嗣治、杉村惇といった巨匠たちの作品に並び、紫の色調が印象的な1枚の油彩画が展示された。「クリニヤンクールの蚤の市」と題するこの絵の作者は吾妻篤さん。宮城県に縁の深い洋画家・杉村惇の直弟子の一人だ。

吾妻さんは1937年、宮城県塩竈市に生まれた。幼い頃から絵を好み、進学した東北大学教育学部では美術を専攻。そこで、当時教鞭をとっていた杉村に出会った。杉村が塩竈に居を構えていたこともあり、吾妻さんは杉村のアトリエに通うなどして教えを請うた。大学卒業後、吾妻さんは宮城県内の中学校や高等学校で美術教師として勤めながら創作活動を続けることになるが、二人の親密な師弟関係は2001年に杉村が他界するまで続いた。

抽象から具象へ、創作スタイルの転換

吾妻篤吾妻さんの青年時代は、アンフォルメル、アブストラクトなどと呼ばれた抽象絵画の全盛期だった。吾妻さんもそういった表現方法に憧れ、抽象画を描いて展覧会に出品するなど活動を続けていたが、塩竈市内の高校に勤めていた30代の頃に転機が訪れた。

海外を見て勉強しようと思って、ヨーロッパを旅行しました。でも、そこで偉大な作家の絵をたくさん見たら、描けなくなってしまったんです。抽象的な表現で、人と違う作品を創造できるような才能は自分にはないと感じて。そこで抽象画はあきらめちゃったんですが、そのかわり、自分が見て素直に感動した物を楽しく描けばいいじゃないか、って思うようになったんです」

吾妻さんはその後、海外で出会った風景や人々の暮らしを題材とした作品を次々と発表。フランスの港町の風景を描いた「オンフルールの港」が1979年の河北美術展で仙台市長賞を受賞し、さらに3年後の同展ではパリで出会った情景を描いた「クリニヤンクールの雑誌屋」が最高賞の河北賞に輝いた。
「わたしは杉村先生の弟子ですから、やっぱり静物を描きたい。でも、机の上に物を置いて師匠と同じように描いたら、師匠には太刀打ちできないんです。だから私は、師匠が苦手とする飛行機に乗って何度も海外へ行き、そこで感動した物を素直に描くことを続けてきました」

旅先で出会ったものたちをキャンバスに描き込む

吾妻篤このたびカメイ美術館に展示された「クリニヤンクールの蚤の市」も、吾妻さんがパリで訪れた蚤の市の雰囲気をイメージしたもの。ただ、そこに描かれている品物の多くは吾妻さんがクリニヤンクールで見た物ではないという。ロシアやチベットなど、吾妻さんが訪れた各地で入手して持ち帰ってきた物が1枚の絵に描き込まれているのだ。

「蚤の市に行くと、本当にいろいろな物が並んでいる。『ごちゃ混ぜ』なんです。そしてそのどれをとっても、どこかで人が作った物とか誰かが使い古したもの。ひとつひとつから人々の息づかいを感じられます。だから私は、世界各地で私が出会い、心を動かされたものたちを絵の中に組み合わせて描くことで、人の暮らしや思いが『ごちゃ混ぜ』になった蚤の市のイメージを表現するのです」

「心は世界中に住んでいようと思っています」

吾妻篤塩竈で生まれ育ち、教員時代の一時期を除いてずっと塩竈で暮らしてきた吾妻さん。「私の生活の拠点は塩竈。だけど心は世界じゅうに住んでいようと思うんですよ」という言葉どおり、海外を旅した回数は30回ほど。訪れた国は30カ国をゆうに超える。

吾妻さんは、海のある国に行けば、まず港を訪れるという。その背景には、吾妻さんの心に残る港町・塩竈の原風景がある。

「やっぱり、塩竈の港が好きだったんですよね。今とは違って、小さな港に素朴な漁船が並んでいて。人々の暮らしが息づく、絵になる風景だったんですよ」塩竈の風景が変わってきたことを残念がりながら、吾妻さんはこう続けた。「今の塩竈にも、千賀の浦(塩竈湾)や松島の島々が見える風景があります。描きたいと思えるような風景を、残さなければダメですね

text:加藤貴伸 photo:大江玲司 取材日:2016年12月17日

プロフィール

吾妻篤
  • 吾妻 篤(あがつま あつし)
  • 洋画家。1937年宮城県塩竈市生まれ。杉村惇に師事し、宮城県内の公立学校で教鞭をとる傍ら創作活動を続けてきた。主なモチーフは、世界各国で出会った風景や物、塩竈の伝統文化など。河北美術展のほか、日展、日洋展などで入選・受賞多数。退職後、現在も塩竈市内のアトリエで創作に取り組む。日展会員、河北美術展顧問、宮城県芸術協会運営委員等を務める。