常日頃の島の連帯感が、犠牲者ゼロへとつながった桂島。ここで25年間、訪れる人を、家庭的な雰囲気と新鮮な海の幸、島のココロでもてなした民宿「仁王荘」も、津波で跡形もなく流された。ご主人の釣舟隆さんに、震災時とその後の暮らしについてお話を伺った。
沖の方からゴゴ~と凄い音が、あっという間に黒い大波が襲ってきた。
震災の当日、釣舟隆さんは、自身が営む民宿「仁王荘」にいた。「仁王荘」は今から25年前に開いた民宿で、たくさんの常連客に愛されてきた民宿だ。「あの日、私は留守番をしていて民宿にいました。強い揺れがおさまって、何分くらいだったかな、沖のほうから波がゴゴゴゴって聞こえてきました」釣舟さんは、50m手前まで波がきたぐらいで避難を開始。民宿の前の坂道を駆け上がった。「その時の波はもう真っ黒。高さが10mはありましたね。あれ、サーフィンするような波、あれより何倍も大っきいヤツね。逃げる途中、電柱はバタバタ倒れ、電線か何かがビビビビ~って鳴ってるしね」。
この辺の人は、地震あれば必ず津波という心構えがある。ただ、あんなに大きいのが来るとは誰も思っていなかったそうだ。「うちの前の道路から少し下がって田んぼがある。その高さがあれば耐えられると思っていました。超えても、せいぜい畳の上にあがる程度かと思ってたの。でも、あんだけ大きいとはね~。まんず、びっくりしました」。
避難、そして避難所暮らし。島ならではの助け合いで乗り切った。
釣舟さんが避難したのは裏山にある学校。そこには逃げ出した島民のみんなもいた。「軽自動車で年寄りとかみんな運んだんだね。だからだれも亡くなったひとがいなかった。避難所では、まず、みんなの無事を確認してひとまず安心した。でも雑談してる時に、津波の第二波が来てね、学校の2階から見たらね、やっぱ波がザーっと来るのが見えましたね。第一波よりも大きくなかったけどね。」ここ桂島に押し寄せた津波は約10~12mだったそうだ。「3階建ての組合の建物にもヒビが入ったりしていましたから、水の威力というのはすごいなと改めて思いましたよ」釣舟さんの奥さんは、知り合いの法事に備えるため塩竈市内の美容院へ出かけていた。「パーマかけに行ってたのっしゃ(笑)その後、一週間ぐらい帰って来れなくて、なにせ船が通らないもんだからっさ。家族がいないから少し心細かったですけどね。でも避難所のみんながいるから寂しくはなかったけどね」。
つらい時期を共に乗り越え、さらに強まった結束感。
震災後、離島ということもあり、支援の手がなかなか回らなかった事実もある。桂島では島民自らが自治組織を立ち上げて、事に当たったそうだ。「田舎はまとまりいいからねぇ。漁師の中でもアサリ部会とか海苔部会とか牡蠣部会とかを組んでいるから、何かあるとすぐにまとまるんだよ。それに、すぐに動ける。私はもう75歳も超えてるから、あんまり声かかんない。手伝ってくれ、とか言われないよ(笑)自分ではまだまだ働けるって思ってんだけどね、みんな遠慮して声をかけてくれないんだな~」。
避難所での暮らしは約4カ月に及んだ。現在の住居に住み始めたのが昨年の7月に入ってすぐのことだった。しかし、仮設住宅はその前には完成し、入居が可能になっていたという。「みんな、一緒に暮らしていたせいか、仮設住宅ができても移ろうという人はいなかった。みんな避難所が解散するまでここにいようっていうのさ」あの辛かった時期を一緒に助け合って生きてきたその結束感があまりにも強かったのだろう、離れるのが寂しく思えてきたのだろうか。「なんか、みんなそういう気持ちになったんだよね」と釣舟さんは振り返る。
若い人たちや子供たちにこの経験をしっかり伝えていくことが一番大切なこと
とにかく、自分たちが伝えられるのは『地震が起こったら、津波は必ず来る』ということ、これは釣舟さんだけではなく、この島の誰もが口を揃えて言う言葉だ。「石巻の小学校で80人くらいの子供たちが犠牲になったでしょ。あれは、先生たちがそういう経験をしていないからじゃないかなって思いますよ。まずは子供たちにしっかりとそれを伝えていくことが、私たちの役割なんじゃないかと思いますね」
text:落合次郎 photo:大江玲司 取材日:2012年7月4日
プロフィール
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- 釣舟 隆(つりふね たかし)
- 元民宿仁王荘主人
- 昭和62年から震災前まで桂島庵寺にて民宿「仁王荘」を経営。桂島の魅力を伝える島ガイドは民宿客に大好評だった。現在は、旧浦戸第二小学校の近くに住まいを構え、常連客との時間を楽しんでいる。
- 住所:塩竈市浦戸桂島庵寺55
- 電話:022-369-2108