松島湾のハゼ釣り名人とよばれる佐藤啓一さんは、海のそばで生まれ育ち、海から生活の糧を得て、海とともに日々の暮らしを紡いできた。傘寿を目前にした今もなお漁に出続ける佐藤さんに、海と漁への思いを聞いた。
2016年、経験したことのないハゼ不漁。
松島湾のハゼ釣り名人・佐藤啓一さんに話を聞いたのは、2016年の12月。この時期、佐藤さんはほとんどハゼ漁に出ていなかった。本来なら、松島湾周辺や仙台などで雑煮のダシに使われることの多い焼きハゼの出荷に向け、ハゼの刺し網漁とハゼ焼き作業の最盛期のはず。しかしこの年は焼きハゼに適した大型のハゼがまったく穫れないのだという。
2011年の津波で海底の状況が変化したことが、ハゼが穫れない主な原因の一つだと佐藤さんは考えている。「海底にあった藻と泥がなくなった。底がうんと固くなったんだ。だからハゼの住むところがなくなったのかもしれないな」
佐藤さんはこの年、毎年焼きハゼを納品している業者からの注文を断った。近所に配る分も、自宅で正月に使う分も確保できていない。近所の人には「今度の正月は鶏ダシだなあ」と残念がられた。焼きハゼを全く出荷しない年は、佐藤さんがハゼ漁を始めて以来、初めてのことだ。
漁師の家に生まれ、海とともに暮らしてきた。
佐藤さんは1937年、宮城県七ヶ浜町東宮浜の漁師の家に生まれた。小さい頃から父とともに船に乗り、櫓をこぎ、魚を釣った。海は大好きな遊び場だった。
「船で海に出るのが一番の楽しみだった」と佐藤さんは振り返る。
中学校を卒業した佐藤さんは、10代の半ばで漁師の道に進んだ。主な獲物のひとつがハゼ。釣り針を使わず、数珠状に束ねたゴカイやミミズをハゼに食わせて釣り上げる「数珠釣り」を身につけた。海底に藻の多い松島湾で、藻に針が引っかかることがなく、ハゼを効率よく釣るのに適した漁法だ。「松島湾のどこでもハゼが釣れた」と佐藤さんが言うほど、当時はハゼの魚影が濃かった。湾内にハゼの数珠釣り漁師は数十人いたという。
その後、ノリの養殖の本格化、海水の汚染に伴う漁場の移転など、佐藤さんの漁業スタイルは少しずつ変化してきたが、数珠釣りと刺し網によるハゼ漁は毎年続け、60年以上にわたって、12月には焼きハゼを出荷してきた。今や松島湾のハゼ漁師は数人になり、佐藤さんはいつの間にか名人とよばれるようになった。
「毎朝、海に出るのが楽しみ。根っからの漁師なんだ」
「海が今まで通りになるのには5年も10年もかかるんじゃないかな」
2016年のハゼの不漁を受けてそう話す佐藤さんだが、松島湾の漁業を悲観してはいない。むしろ佐藤さんの言葉からは、後継者の出現への期待がにじむ。
「漁師、悪くない商売だと思うよ。これからでも十分食べていける。楽しいしね。一人前になるのには5年10年かかると思うけど、それでも漁師になろうっていう若い人がいれば技術的なことは俺が教える。海の様子を見て状況判断できるようになるまでさらに年月はかかるから、難しいんだけどね」
佐藤さんは、長年主力商品のひとつとしてきたノリの養殖を70歳になる年にやめた。ここ数年は外洋に出ることも控えるようになった。現在はハゼのほか、湾内での数珠釣りと刺し網を中心とした漁を続けている。漁業の規模こそ縮小してきたものの、海は今も佐藤さんの生活の一部だ。
「海が荒れない限り、船に乗らない日はない。毎朝、海に出るのが楽しみなんだ。子どもの頃と同じさ。根っからの漁師に生まれたんだね」と笑った佐藤さんは最後にもう一度、淡い期待を口にした。「若い人で、俺みたいな人がいればいいんだけどね」
text:加藤貴伸 photo:つながる湾プロジェクト 取材日:2016年12月12日
プロフィール
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- 佐藤 啓一(さとう けいいち)
- 漁師。1937年、七ヶ浜町東宮浜の漁師の家に生まれ、現在も同所在住。10代半ばで漁師の道に進み、数珠釣り、刺し網漁による活魚のほか、ノリやカキの養殖も手がけてきた。松島湾で今もハゼ漁を続ける数少ない漁師の一人で、ハゼ数珠釣りの名人とよばれる。