阿部義彦

浦戸諸島の各島々では、被害は大きかったが、ひとりの犠牲者も出さなかった。これは日常の島民同士の心のつながりがあったからこそ。桂島の海苔養殖漁師、阿部義彦さんに、当時の様子と現在の島の姿を語ってもらった。

過去の津波が教訓に速やかに避難。今、海苔養殖の復活を目指して。

阿部義彦桂島漁港の一画、阿部義彦さんは海苔養殖の網を修理に余念がない。昨年の大津波によって大打撃を受けた浦戸諸島の海苔養殖。昨年はそれでも前年比70%にまで収穫を上げることができた。「昨年はみんなで力を合わせて頑張りましたね。値段も良かった関係もあるし、条件にも恵まれましたので、なんとか借金の返済もできたしね(笑)」。

阿部さんはあの震災当日をこう振り返る。「私たち海苔屋は全部機械が稼働していましたね。みんな生産が佳境の時でした。私のところの機械には海苔が入っている状態でしたので、地震で機械がバタバタ倒れてしまってね。そのあと、ラジオで大津波警報が出され、こりゃダメだと思って、もう何も持たず高いところに避難したんです」。前の年にチリ地震津波を経験、さらに子供の頃には同じくチリの津波も経験している。多分10メートルくらいの津波が来たら大変なことになるという覚悟はしていたそうだ。

地震イコール津波という共通意識。それが犠牲者ゼロに結びついた。

阿部義彦「『いや、うちまではこないべぇ』とか思っている人もけっこういたんです。でも、避難していなかったら、流されてっからね。一人暮らしのひとは、腰抜かしたみたいになって、もう動けない状態になっていたから、1軒1軒声かけてね。『トラックに乗って~!』って。トラックが入れないところは、おんぶしてでも連れてきましたよ。それを徹底してやったから、ウチの島は被害が無かったんだと思いますよ」

やっぱり、島がえらいことになるという確信はほとんどの島民が持っていた。だから、半ば強制的にトラックを出して運んだ。それが、犠牲者ゼロに結びついたのだろう。

「島なので海に囲まれている以上、今回のような大きな被害もあるので、やっぱり津波をなめてはいけない。地震があったら、海は津波が来る、必ずそういう意識を持って、自分の身を守ることも大事ですが、知らない人にも教えるくらいの心構えが必要です。経験を含めて私たちは残していかないといけないし。地震イコール津波、っていうのをみんな考えてほしいと思いますね

仕事ができる喜びを感じながら焦らずじっくりと復興への道を。

阿部義彦海苔養殖では、昨年グループを組んでひとつにまとまり、共同の施設で仕事ができるようになったそうだ。「去年はがんばりましたよ。みんなで力を合わせて、前年比7割くらいの成果でしたね。値段もよかった関係もあるし、条件にも恵まれたので、まぁよかったですね。借金払えたくらいですかね(笑)」

これからもっと新しい生産の段階に入って、これまでよりもよくしないとね。みんなで苦労しているわけだから、報われないとね。復興・復興といっても、生活自体の復興はまだまだ遅れている気がしますね。これから住居についても本格的な話し合いが続いていくでしょう。焦らずじっくりと行くしかないんじゃないでしょうかね。

そういう行き先不安定な中でも、やはり仕事が出来たのは良かったという。「やっぱり、1年遊んでしまうのと、1年でも海に出れたっていうのでは気持ちが全然違う。やっぱりみんな、仕事しているうちは安心しているんですよ。仕事しないと不安だらけでなにも進まないんだけど、仕事していればいろんなことも忘れるし、前に進もう、っていう気持ちになれる。仕事ができてよかったと思っていますよ、ほんと」。

text:落合次郎 photo:大江玲司 取材日:2012年7月4日

プロフィール

阿部義彦
  • 阿部 義彦(あべ よしひこ)
  • 塩竈市浦戸野々島区長
  • 塩竈市桂島在住。長年、地元で海苔養殖業に携わり、現在、宮城県漁協塩釜市浦戸支所の桂島地区漁協組合長を務める