平間至

被災地とそれ以外の場所では考え方に温度差がある。テレビに映る範囲の被害状況と目の前に広がる被害の光景は、その差が歴然だ。震災以来、月に一度は塩竈を訪れ、継続的な支援活動を行っている塩竈市出身の写真家・平間至さんに、震災以前から構築してきたネットワークへの感謝や写真家として、いま感じてることを聞いた。

3.11、あの時。

塩竈市出身のフォトグラファー平間至さんは、3月11日、東京都内で地震に遭遇した。「移動中のタクシーの中でした。前後左右に大きく車が揺れ、果たして車が壊れたのか、自分が壊れたのか(笑)わからないほどでした。運転手さんが「地震だ」と言うまで、何がなんだかわからない時間でした」。

その後、震源が東北だとわかり、真っ先に思ったのが塩竈のこと。平間さんは、子供のころに父親や祖父からチリ地震津波の話を聞き、津波が恐ろしいものだというイメージを持っていたそうだ。「塩竈港は入り江が狭く、波が高くなって押し寄せる。もう壊滅状態になっているから情報も無いんだろう、となかばあきらめに近いものがありましたね。しかも、テレビで仙台湾のコンビナートの火災の映像を見たときにはさらに心配になりました。実家が多賀城市大代にあるので、後から聞いた話によると、火災の音と光、熱、そしてアスファルトみたいな黒い煤が降ってきてとても恐ろしかったと言っていました」。

考えることと行動することのバランス。

平間至平間さんが、震災以降、塩竈を初めて訪れたのが3月22日。あらかじめ塩竈の知り合いなどから必要なものを聞き出し、ツイッターやホームページなどで呼びかけ、ハイエース2台にパンパンと詰め込んだ物資を積んで塩竈に入った。

支援活動はタイミングが大事、と平間さんは言う。「被災地の状況は日に日に変わっていきます。昨日は食料がまったくなかったのに、翌日には自衛隊から大量の物資が届いたりしますからね。実際に見たり聞いたりしないと、支援内容にもズレが生じることになります。いろんなことを感じた上で行動しないと行動することと考えることのバランスが大事なのかなと思います。僕は、10年以上も前から、塩竈フォトフェスティバルなどをはじめとする文化活動を続けてきました。だから、ネットワークがすでにあり、そこから情報をリアルタイムで得ることができたんです。それがなかったら支援できなかったでしょうね。いろんな人たちが協力してくれるというのには感謝しています」。

始めることが大切、復興ライブ開催を決意。

平間至

平間さんがこれまで行った支援活動の中で、とても思い出深いイベントがあるという。それは震災から約1ヶ月が経過した4月17日に、本塩釜駅前の旧ロイヤルホームセンターの駐車場で行われた復興ライブである。

キャンドル・ジュンさんらのLOVE FOR NIPPONの協力で、被災地・塩竈にキャンドルの灯りがともり、そんな中、多くのミュージシャンが熱く、優しく、塩竈を応援してくださいました。キャンドル・ジュンさんが、震災後に初めてキャンドルを灯したのがこのライブだったんです。キャンドルを灯すというのは、風などの影響もあってなかなかうまくコントロールできないそうなんです。でも、この時だけは、見事に成功したんです。それはそれは感動的でした。集まるみんなの気持ちがひとつになって、そのパワーが乗り移ったようでしたね」。

参加者の中には“震災以降、初めてホッとできる夜だった”と言う声も多かった。そもそも、このライブを思い立ったきっかけになる出来事があったそうだ。

「3月に塩竈を訪れたとき、まだお店なんかどこも開いてなかったのですが、尾島町のナインマイルズというバーだけが唯一開いていたんです。震災以降、被災地だけではなく東京もだけど、日本全体が自粛っぽい空気で蔓延してましたよね。どうしていいのかわからない状況だったと思うんですよ。でも、そのバーのラスタカラーの看板を見たときに、とてもうれしくて、やり始めることが大切なんだなって思いました」。

写真家として思うこと。

平間至

平間さんが写真家として思い続けていることがある。それは“自分がシャッターを切る姿勢にブレがあってはいけない”ということ。「このことは、常に自分に言い聞かせながらやっています。そこがぶれてしまうと作家として自分はなんなのかということになります。今回も、目の前に広がるひどい光景は、僕にシャッターは切る気持ちを起こさせなかった。何回か塩竈に足を運んでいますが支援がメイン。そして、ちょっと夕方くらい現場を見せてもらって写真を撮るというスタンスだったんです。

写真を撮る立場で津波の記録をとって後世に伝えたほうがいいのではと最初は考えていました。そのわけは、チリ地震津波の写真とか映像とかを見たことが無くて、すべて言い伝えで聞いていたからです。湾の水が全部一回無くなったとか…、ものすごく怖いイメージが僕の中にはありました。そういうことを、今回は写真として残そうと思っていたのですが、実際、あまりにもひどすぎる現状を見て、記録のために写真を撮ろうという気持ちには一切ならなかったんです。記録という点では、空撮の映像など動画のほうが、津波のスケール感やすさまじさを記録できると思うんです。だから、今ここで写真を撮るよりも、とにかくみなさんに温かいものを食べてもらいたいという気持ちのほうが強かったんです」。

しかし、1回だけ写真を撮るという目的で、女川、雄勝、南三陸を回ったんですが、そこで思ったのが、“写真を撮るために写真を撮っちゃダメだ”ということ。写真が目的になっちゃいけない。案の定、そのときに撮った写真は、“写真を撮るための写真”になっちゃったんですよね。自分のシャッターを切る気持ちがどこかずれていた。そんなにたくさん撮ってはいないのですが、炊き出しの後にちょっと撮ったものの方がよかったんじゃないかと思いました。」

塩竈に思いを寄せて

塩竈は魚が採れたり、鹽竈神社があったりと、いい素材があるのに、それを活かしきれていない。その良さを自覚して、新しい街づくりを行っていってほしい。僕自身、東京に出て初めて特別いい街なんだ、ってわかったし、今回協力してくれた人たちも、塩竈を気に入ってくれているし二度三度と訪れたいという人もすごく多い。街に魅力があるからそう思ってくれるわけですから、現地の人も、他にはない塩釜の良さを自覚してそれを街づくりに活かしていってもらいたいと思います。

また、塩竈は、被災をしながら街の機能が残っている稀有な街のひとつ。宮城県で一番早く仮設住宅もできましたしね。復興のプロセスという点では、塩竈がイメージリーダーになりえる街なのではないかと思います。ぜひとも、東北全体を引っ張って行けるようなイメージづくりをおこなってほしいと思います。

Text:落合次郎 Photo:大江玲司 取材日:2011年8月20日

プロフィール

平間至
  • 平間 至(ひらま いたる)
  • 1963年宮城県塩竈市生まれ。日大芸術学部写真学科卒業後、NYで作品制作。帰国後、イジマカオル氏のアシスタントを経て、1990年独立。
    以後、『ROCKIN’ON JAPAN』、『CUT』など、エディトリアルの写真を出発点に、TOWER RECORDS『NO MUSIC, NO LIFE.』シリーズといった広告や、数々のミュージシャンのCDジャケット写真など、第一線で幅広く活躍している。2008年より塩竈フォトフェスティバルを企画・プロデュース。第3弾となる今年は10月12日~23日に開催される。
  • 平間至ウェブサイト:http://www.itarujet.com/