河原 秀登

GAMA ROCKの会場で、ひときわいい匂いを漂わせていたのは博多から参加した「秀ちゃんらーめん」。代表取締役の河原秀登さんは、平間至さんやATSUSHIさんらとの繋がりがあり、震災後塩竈にも炊き出しにやって来た。今回は久しぶりの来塩。震災から1年半以上たった塩竈は、河原さんの目にどう映ったのであろうか。

炊き出しよりも、人とのふれあい。訪れるたびに絆が深まる。

河原 秀登50年続く博多ラーメンの老舗『博多だるま』の2代目、そして新たに『秀ちゃんラーメン』をたちあげて20年というオーナーの河原秀登さん。彼がこの塩竈と繋がったのは、旧知の仲だった平間至さん、ATSUSHIさんとの仲だけではなかった。「僕はニューヨークにもお店を出しているのですが、そこのスタッフにたまたま東北出身の者がいて家族が被災されたと聞いたんです。なんとか彼の家族の様子だけでも見に行けないかと思ったのが、東北との繋がりのきっかけでしたね」しかし、河原さん単独では難しかったのでチームを組んで現地に向かった。「現地に入ったのが震災の10日後くらい。宮城県では気仙沼鹿折地区、七ヶ浜町などで炊き出しを行い、塩竈にも10回以上足を運んでいます

最初は炊き出しに来るだけみたいな感じだった。しかし、地元の人たちと接していくうちに、不思議と家族にも似た感情が芽生えてくるのを肌で感じた。「『また来てね』とか『今度いつ来るの~』なんて言われるとうれしいですよ。言葉のやりとりから、絆ができちゃって、今ではラーメンを作りに来ているというより、みんなに会いに来ているという感じ。そっちの方が大事になっちゃった(笑)」

たった一回で終わる支援じゃダメ。みんなの笑顔を見に何度も足を運ばなきゃ。

河原 秀登一番最初に塩竈に来た時は、河原さんは3日間しかいられなかった。その間、みんなが食べているものを見て唖然としたそうだ。「こういう状況なのに、ただ一回だけ炊き出しに来るという行為が、単なるエゴみたいな感じがして、さらにみんなに対しても酷な状況をつくるだけだなと感じたんです。だから、今後も何回も何回も来ようと思ったんです」それが今、塩竈とつながっている理由だと河原さんは話す。

そして、来るたび来るたびに、元気になっていく塩竈を肌で感じてきた河原さん。今回もみんなのパワーに圧倒されたという。「やっぱりみんなの笑顔はいいですよね。最初に来た時は、なんかこう、ギスギスしているというか、笑顔もぎこちなく、眼の奥に暗さが見え隠れしていた。人と人との距離があって自分もどう接していいかわからなかったのが正直なところ。それを考えると、ほんとによかったと感じますね」

これからは、雇用と経済をしっかりと。そういう面で塩竈に貢献したい。

河原 秀登今後は塩竈にお店をオープンさせるのが河原さんの夢なのだそうだ。「しかも、地元の人と一緒にやれたらいいですね。この町をもっと元気にするには、雇用とか経済、支援などをうまくやっていかないといけない。食糧支援だけではなくて、経済とか納税という面を考えたら、ここに店舗があって、塩竈の人を代表にして、そこで経済を作って雇用を生むというのが、いちばんベストだと思っているんです。まだまだ予定は未定なのですが、僕はそういうヴィジョンをもってこの塩竈の町と付き合っていきたいと考えています。しかも超安くね(笑)」

Text:落合次郎 Photo:大江玲司 取材日:2012年9月22日

プロフィール

河原 秀登
  • 河原 秀登(かわはら ひでと)
  • 1966年福岡県福岡市生まれ。アメリカ留学後、大学を中退。家出同然で大阪に行き、調理の勉強をする。地場の割烹で1~2年修行し帰福。23歳から両親の店『博多だるま』を手伝う。27歳の時、『秀ちゃんラーメン』を開店。現在、地元福岡を飛び出し、東京・海外進出を果たしている。